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2010年11月の新潟旅行(水平線と野沢温泉) [自分史]


友人二人と新潟旅行をした。大阪在住の友人と私は名古屋まで新幹線で行き、それからは名古屋在住の友人の車に乗った。紅葉と雪の山並みを見ながらの片道五百キロの七時間の旅であった。大きな目的は、今年三月に早期退職して新潟の家に帰った友人に会うため。我々は仕事を通して仲良くなった仲間である。
まず新潟の友人宅を訪問し、名古屋の友人の知り合いが教授で勤めている新潟国際情報大学を見学。夜は、割烹「じゅんさい」で懇親を深めた。新潟の友人の奥様と先生も加わって、おいしい地酒を頂いた。

晴天の夕暮れ時に、日本海の水平線が見える道路を車で走った。風が強いのだろう。防風林は細く曲がりくねっている。防風林の上に海が延々と続く。百八十度の水平線の大パノラマ。浮かぶ船と青黒い海。私の目に映るキャンパスには、画面の上に船があり、その下にかすかに丸みを帯びた水平線の海が端から端まであり、さらに下には防風林の砂浜が描かれている。上から順番に、山があり、浜があり、そして一番下に海がある風景はなじみがあるが、海の下に砂浜があるのは不自然で不思議な感覚である。そして、時間的都合で見ることができなかったが、その日の水平線に沈む夕陽を私のキャンパスに加えれば、最高の風景画になっただろうと思う。

翌日は、「今代司酒造」の酒蔵と「北方博物館」の豪農の館を見学した。その日の昼のつけめんラーメンと前日の宿泊したホテルの前で食べた喜多方ラーメンが美味しかった。腰のある、やや太い麺でコクのある味だった。



昼食後、新潟の友人と別れて、野沢温泉に向かった。
野沢温泉には十三箇所の外湯がある。旅の疲れを取るために、さっそく旅館近くの「大湯」という外湯に行った。およそ三メートル四方の木製の湯船が二つある。二つとも湯が熱い。一つの方は、蛇口から勢いよく水が出ているが、それでも熱い。手を入れたり、片足を入れたりして、なんとか入ろうと努力するが、体を沈めることなんて到底できない。徐々に体が冷えてくるので、やむを得ず水を出しっぱなしにしているところに、水を抱くようにしてそっと入った。それでも手足がヒリヒリと熱くなる。そそくさと上がって、浴衣を着て帰った。翌朝の旅館の内湯で、やっと温まった感じがした。

翌朝、朝食前に散歩。坂道を登り、雨に濡れる落ち葉を踏みしめながら、源泉にたどり着いた。霧雨の湯煙の中で、地元の女性がカッパをきて、源泉に浮かぶ落ち葉を取り除いていた。それから、ゆがき上がったらしい菜っ葉を引き上げている。「温泉の湯が熱くて入れないですね」と声を掛けると、「地元の人は入る前に十分に掛け流しをして入るんですよ」と丁寧にそして優しく答えてくれた。墨絵のような情景が心に残った。

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2010年5月の舞鶴旅行 [自分史]

 

五月の連休に、呑み仲間の友人二人(AさんとBさん)と舞鶴一泊旅行に行った。三人とも昭和25年の寅年。
電車内で、さっそく月桂冠純米大吟醸鳳麟300mlを飲み干した。
綾部で、Aさんの友人の社長さんが迎えてくれた。縫製工場を経営している方だ。その工場には二十数名の若い女性が働いている。中国からの研修生ばかり。三年間の研修中に日本語検定二級を取得して帰国予定らしい。帰国後は有利な条件の就職先が待っているとのこと。
女工哀史を彷彿させる職場や住居や賃金環境だが、休日のお昼時だったが喜々として明るい女性たちに感銘を覚えた。タケノコ狩りの長靴姿の開放的な奥様があってこそか。
昼食は「浮舟」。店名は源氏物語の宇治十帖由来とのこと。畳部屋に足付きのテーブルと椅子の個室は初体験。戦国時代に豪商や大名がポルトガルのワインを呑んでいるシーンがよぎる。舞鶴漁港直送の寿司が旨い。酒は中ジョッキ。
食後、社長さんの車で宮津へ。宮津から遊覧船で、天橋立を見ながら傘松港、リフトで一気に股のぞきの場所へ。古事記の国生み伝説のように天から松林が降りているように見える。
リフトでもケーブルでもどちらでも利用できるが、やはり見晴らしならリフトに限るが、多数の行列に断念、ケーブルで降りた。
夜は西舞鶴高校前の「酒房豊楽」。ひれ酒の量が半端じゃない。二合程度入ったグラスだ。店名と同じ辛口の酒。ひれは二回目が美味しいと店の女性。Bさんは二杯、私は半分をAさんに提供したので、一杯半呑んだ。確かにひれ酒は辛口が合う。さらに、兵庫の有名地酒小鼓吟醸生酒300mlも賞味した。
社長さんの中国土産の紹興酒「会稽山」は十年ものの花彫酒だ。紹興酒はもち米で造った醸造酒で独特な熟成香と辛口の味が特徴。日本酒は年月を経て熟成していくと紹興酒のような香りになり、更に熟成が進むとシェリーの香りがする。醸造酒には共通する香りがあるのだろう。
この店も舞鶴漁港直送。鳥貝のさしみも美味。タラの芽などの山菜テンプラもボリュームたっぷりで旨い。店主の柔和な顔で、ますます酒が進んだ夜になった。
翌朝は、店主に舞鶴漁連の競り市に連れて行っていただいた。縫製工場の社長さんには、綾部駅から競り市まで御案内いただき感謝している。「酒房豊楽」での燗酒の飲みっぷりと飾りっ気のない人柄が印象に残る。
舞鶴は東舞鶴と西舞鶴に分かれる。西舞鶴は池田藩城下町であり、東舞鶴は海軍の軍港として発達した。西舞鶴は、明智光秀の娘ガラシャ婦人の義父であり古今伝授の細川幽齊や森鴎外の山椒大夫の安寿姫などBさんのような歴史好きにたまらないようだ。
舞鶴界隈は、地酒白嶺酒造の酒呑童子の看板がやたら目についた。
京都・西舞鶴間の乗車券と特急料金(座席指定)約2500円が、京都・東舞鶴間は3400円。一駅違うだけで900円も違う。ちなみに西舞鶴・東舞鶴間の乗車券は200円。もっと安い乗り方あったのではと悔やまれる。
東舞鶴の舞鶴港遊覧船は30分コースながら、イージス艦などの艦船が間近にあり迫力満点だった。更にイージス艦の艦上見学までできた。大砲からミサイル仕様に時代が変わったことを実感。ボランティアガイドの自衛官OBの木訥(ぼくとつ)とした説明が良い。
昼食の「卑弥呼」という店は、待ち客がでるほどの評判の店だ。タクシーの運転手が連れて行ってくれた。この店も舞鶴漁港直送。舞鶴発祥の肉じゃがと海鮮丼と中ジョッキ。昨日の呑み過ぎがなければ、地酒でじっくりいきたかったところ。
舞鶴最後の訪問地は岸壁の母で有名な引揚記念館。子を思う母の偉大さに感銘を受けた。
母親に甘えた頃が懐かしく、もう一度懐に抱かれたい思いに駆られた。
Bさんのお父さんはシベリアの引き揚げ者とのこと。下賜された銀杯を三兄弟で分け合ったことやバイカル湖を一日中汽車で走った父親からの思い出話を語ってくれた。
私の父は明治43年生まれだから戦時中は30代であったが、結核療養のため軍隊経験がない。片肺をなくした父は卵の卸の商売で4人の子供をよく育ててくれた。66才で亡くなった。
Aさんからお土産「久米島の久米仙ブラック5年」の泡盛を頂く。泡盛は米こうじ100%の蒸留酒でまさに全こうじ仕込みである。

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卒業証書を破った大事件 [自分史]



高校時代に、卒業証書を受け取る総代の女の子が、受け取った途端に、卒業証書を破り捨てるという大事件があった。
その時、私も出席していましたが、大勢の人数ですから、その場で何が起こったのかいっこうに分かりませんでした。自宅に帰ってから、テレビや新聞で大騒ぎになっていて、事件のあらましが分かりました。
当時、大学は紛争で騒然としていて、東大はその年に入試はありませんでした。
私が希望した大学はバリケード封鎖されて入試会場は郊外の私立高校。
ですから、大学生と同じような問題意識を持った高校生もいたのは当然です。
一方の私は、100%受験だけ考えていた高校生でした。
破った女の子は京都の女子大に入ったと、うわさで聞きました。


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焦げご飯 [自分史]



子供の頃、電気炊飯器のない時代、母はガスコンロにアルマイトの釜を乗せてご飯を炊いていた。
炊きあがったあとの釜にこびり付いた焦げが美味しかった。
焦げが出来ると、母は私を呼んで食べさせてくれた。


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亥の子 [自分史]



私の故郷の広島には、「亥の子」という行事がありました。
はっぴを着せてもらって、「いのこ いのこ いのこもち ついて はんじょうせ はんじょうせ」と、一軒ずつ、家を回ります。
大きな石に長いひもが何か所もくくられていて、たくさんの子供たちが、そのひもを持って、石を上下させて、餅をつく真似をします。
行事が終わると、お菓子をもらいます。
私は、進んで仲間に入る勇気がなく、大人の人が誘ってくれないと、遠くで眺めていることもありました。



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忘れられない俳句 [自分史]



私の中学三年生の修学旅行は奈良と京都。
旅行が終わって、旅行の思い出に俳句の授業がありました。
バスで比叡山から降りる最中に目にした琵琶湖を思い出しながら、「青葉咲く 琵琶湖見下ろす 比叡山」と私は詠みました。すると、「青葉濃く 琵琶湖見下ろす 比叡山」と先生が添削。確かに青葉は咲きません。濃くの方が自然です。
愚作ですが、私の人生で詠んだ忘れることのできない作品です。


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おふくろの味 [自分史]



ハレの日の「巻きずし」と「ジャンボむすび」が私のおふくろの味です。
昭和三十年代後半頃は、家族の人数が多く、活気があって、にぎやかでした。
嫁いだ姉たち家族が集まりますので、何升くらいか知りませんが、山ほど「巻きずし」と「押し寿司」を作っていました。干瓢と椎茸と卵とアナゴが入っていたのは覚えていますが、後は分かりません。ごくスタンダードなものだった。私がまだ小さかったせいだと思いますがボリュームがあって一切れで腹が膨れる感じでした。
また、高校の受験勉強の時に作ってくれたおにぎりも、おふくろの味です。
今は、海苔と言えば焼き海苔ですが、あの当時はなかなか噛み切れない海苔でした。その海苔一枚に、熱々のご飯を茶碗二杯分いれて、沢庵や塩昆布を入れて、包み込んだだけのものです。これを両手に乗せて、ご飯がはみ出してこぼれないように食べました。育ちざかりの私には旨かった。


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成果主義 [自分史]



私は定年退職する10年ほど前から、中小企業の私の会社も年功序列をやめて成果主義を実施し始めました。
しかし、今振り返ると、社長は努力すれば給料が増えると社員に言い含めましたが、結局のところ、人件費抑制のためだったと思います。
定期昇給はなくなり、会社業績はボーナスのみに反映されることになりましたが、社員間の給料格差は拡大しました。
優秀な人はごく一握りで大半は凡人ばかり。その凡人の給料は軒並み減りました。
年功序列時代でも、優秀な人はトントン拍子に出世していましたので、成果主義を取り入れなくても、会社業績は変わらなかったのではないか思います。
成果主義では、新年度になると一年間の個人の目標を設定し、期末には自己評価をします。これをチャレンジシートと呼んでいました。異動しない限り、仕事内容は毎年毎年変わる訳ではありません。目標もたいして変わりません。
ですから、毎年毎年チャレンジシートに書き込むのに苦労しました。言葉変えて、いかに上手に作文するかが腕の見せ所でした。
評価する上司は、チャレンジシートを見なくても、仕事できる人かできない人なんて、すぐにわかります。できない人が、その年だけ突然に成果を出すなんて考えられません。
成果主義の制度は、お遊びのようなものでした。


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秋刀魚を食べ尽くす [自分史]



親の躾なのか性分なのか、私は魚の背骨だけ残してほぼ食べ尽くします。皮も、目玉の周りも、秋刀魚なら内臓も、骨が柔らかければ骨も、食べます。
しゃぶり尽くした後には、ほぼ背骨と小骨だけが残ります。
私は、誰にも負けない自信があります。
阪神大震災の時、神戸の大学に通っていた妻の姪が我が家に避難してきました。
彼女は秋刀魚をきれいに食べてくれました。私よりもっときれいにです。今までの人生の中で、負けたのは彼女ぐらいです。


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会社人生 [自分史]


私は昭和48年に就職し、38年間働きました。
入社2年後に、会社の販売量が最高を記録しました。昭和51年から減り続けまして、退職時には、三分の一近くまでになりました。
バブル崩壊は平成に入ってからですので、私の会社はバブル崩壊の10年以上前から減っていたことになります。
従業員の四分の一強のリストラでも、立ち直ることができなくて、減少は続きました。
毎年、前年比1~2%の微減でしたので、経営者にはあまり危機感がなかったのかもしれません。
高級品のメーカーでしたが、しまいには安い量販品のメーカーになってしまいました。
そんな会社でしたが、私にとって幸いにも、給料を減らされることなく、定年を迎えられました。そのかわりに、リストラや大幅な減給に泣いた同僚がたくさんいます。

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