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ヨイトマケの唄 [自分史]



中学三年生の京都と奈良の修学旅行のバスの中で、担任の先生(清水先生)が唄ってくれました。五十才代くらいのやや小太りの温厚な男の先生。その当時流行っていて私も知っていました。長い歌詞をすべて唄われましたが、哀調に満ちた唄にみんな聞き惚れてしまいました。
高校三年生の時に、その先生の子供と同級になり、受験について長い時間、話し合ったことがあります。


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武ちゃんの波乱万丈の人生 [自分史]


私の兄弟は、長姉、次姉、三姉、兄、私の順である。お互いに「・・・ちゃん」と呼び合っていた。
武ちゃんは三番目の姉だが、生まれるとすぐに母の兄の養女になった。
高校卒業後、就職で私の家に同居するようになった。私が中学生の頃である。
小企業の経営者の子息である大学生の相手と結婚して、二人の娘と男の子を生んだ。
しかし、男の子は小さい頃に、義母の不注意で階段から転落して亡くなり、長女は自殺した。
次女は、妻子のある相手と三人の子供を産んだ。
その次女も、連れ添いと別居し、今は一番下の女の子と住んでいるらしい。
武ちゃんの夫は養老施設の経営、武ちゃんは会社のオーナーとして頑張っていたが、72才で夫は他界。
その後、一軒家の自宅を売却し、今は、一人でマンション暮らし。
若くして本人も長女もガンを患っていた。
波瀾万丈の人生だ。


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広電の義兄 [自分史]



私には三人の姉と兄がいるが、一番上の姉の連れ添いが広島電鉄に勤めていた。
山口県の室津の出身で電車の車掌。容姿が俳優の藤田まことに似て、出っ歯。「すいかを食べるには便利じゃけん」と言っていた。
姉は広島電鉄のバスガイド。二人の娘をもうけ、おしどり夫婦だった。
67才で亡くなった義兄の葬儀の日、「おとうちゃん」と叫びながら棺の前で嗚咽した姉の姿を見て、私も思わず涙がにじんだ。元職場の多くの仲間も参列し、「ゆうさん、ゆうさん」と別れを惜しまれる様子に、みんなに慕われた義兄の姿を見た。姉は77才で死んだ。


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父の船頭小唄 [自分史]

私はススキに会うと、小学生の頃、狭い自宅の二階での宴席で、酒につられてバイオリンを弾く真似をして、「俺は河原の枯れれすすき・・・・・」を楽しそうに唄っていた父の姿を思い出す。おそらく父が50才くらいか。
結核で片肺を失くしていたし、あばら骨がみえるほど痩せこけていたので、かすれ声で息苦しそうだった。昭和初期の父の青春の頃の唄だ。


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プールに入るための検査 [自分史]



小学校時代の水泳の授業、シャワーで身体を洗い、更にそれから先生のチェックに合格しないと、プールに入れなかった。
先生は、身体がきれいに洗えているかどうかを、くるぶしの後ろ側をこすってチェックをしていた。もっと正確に言えば、くるぶしとかかとに近いアキレス腱の間のへこんだ柔らかい箇所。
私は必ず引っかかり、垢がゴロゴロ出て、いつも恥ずかしい思いをしていた。
今になっても、風呂場で足をこする時、必ず思い出されるシーンだ。


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切手収集 [自分史]


小学校から中学校にかけて、切手を収集することが流行った。ストックブックに集めた。収集方法は、郵便局で新発売の切手を買うか、友達と交換するかだった。切手ショップで買うほどの小遣いはない。
私は一枚ずつ集めていたが、お金のある友達はシート単位で収集していた。
当時、「月に雁」や「見返り美人」などの切手は高嶺の花で、我々にとって欲しくて欲しくてたまらなかった。
お父さんが郵便局員の同級生の女の子が、それらの高価な切手を教室に持ってきて、皆に見せくれた。彼女がうらやましくて、私は呆然とながめていた。
かなり熱中した切手収集の趣味だったが中学時代で終わった。
私のストックブックは、就職で実家を離れてから行方がわからなくなった。たいして価値のあるものは無かったが、そばにあるなら開いて、あの頃を見てみたい。

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人生最大の赤っ恥 [自分史]




スクールで教わった訳ではないが平泳ぎは自信があった。
高校の時に模範演技をしたこともある。もちろんクラス対抗リレーに選ばれたのだが。
一人で25メートルプールを往復。いくら平泳ぎに自信があるからといって、下手なクロールの方がタイムが良い。第一泳者でクロールで泳いだ。25メートルの折り返しで肩をたかれたが、目いっぱいだったので無視して泳いだ。ゴール直前になって、誰かが飛び込んできて、私の泳ぎを止めた。
誰かがフライイングをしていたのだ。大勢の観客の見ている中で、私一人がほぼ50メートルを泳いだ。
アンカーに回されたが、精根使い果たして疲労困憊。再びクロールで泳ぎきる自信なくて、平泳ぎに切り替えて泳いだが、抜かれてクラスは最下位になった。


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澄ちゃん [自分史]



私は五人兄弟の末っ子。一番上の姉とは年の差は15歳。その姉澄ちゃんは77歳で亡くなった。
澄ちゃんは中学校を出ると広島電鉄のバスガイドになった。職場結婚して川の堤防の道路から石段を下りた所に間借り、裏に広陵高校の高い野球ネットがあった。そこで長女を産んだ。
その後、私の実家のそばに転居して次女を産んだ。澄ちゃんの家に行くと必ずラジオを聴きいていた。
私の高校の入学式に母の代わりに来てくれた。私が16歳で澄ちゃんが31歳。
父は自転車に20kgほどの卵を積んで旅館や喫茶店などに卸していたが、澄ちゃんは手が空けば配達をよく手伝っていた。
私が大学を卒業するまでは、お年玉や時々小遣いもくれた。
子育てが終わると、かなり長い期間、競輪の券売の仕事をしていた。
澄ちゃんの夫は路面電車の運転手で、平成8年に67歳で脳卒中で亡くなった。葬儀の時、「お父ちゃん」と慟哭したので、私も涙が出て止まらなかった。墓地は、私たち両親のすぐ隣にある。
四番目の兄がすい臓がんで大学病院に通院している間、不自由な身体の兄嫁に変って、いつも付き添っていた澄ちゃんだった。


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灘支店 [自分史]



私の元の会社の灘支店は阪神大震災で甚大な被害を受け、その後数年間稼動したが、業績が悪化したために閉鎖され従業員は全員、京都伏見の本社工場に移籍。まもなくして、リストラで灘支店出身者の六割以上の人が辞めさせられた。
私は二十歳代後半から十年間、灘支店に勤務。
五十人前後のこじんまりした支店。支店での勤続年数が長い人が多いために、家族的雰囲気があり居心地が良く、本社伏見と比べ格段に仲間意識が強かった。
三十八年間のサラリーマン人生の中で、最も思い出のある職場だった。

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胸像を壊す [自分史]


小学校の五年生か六年生か定かでないが、放課後に数人の友達と真っ暗な美術室に入って遊んでいて、運悪くデッサン用の胸像が倒れて壊れてしまった。
私たちは脱兎のごとく学校を逃げ出した。
誰が胸像に触れたのか言い合いになったが、誰かの提案で、とにかく担任の先生に話せば、どうにかなるだろうと、先生の家に行った。かなり遠かったが先生は不在だった。
他のことは記憶にない。
結局、後になって、親たちが弁償したと聞いた。


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