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秀才 [自分史]

秀才

小学校六年生の遠足で、宮島の弥山(みせん)に登った。皆で競争して登った。トップになったのはE君。
彼は背が低かった。秀才で、付属中学・高校から一橋大学に行った。昭和44年、学園紛争のために東京大学の入試が中止になった時は、やむを得ず一橋を選んだと風のうわさに聞いた。
私にとって、まわりに自慢できる唯一の秀才だった。
中学の時、彼の年賀状に「一期一会」と書いてあった。以後、私はその言葉を何年もの間、年賀状に使った。
小学校卒業以来、会っていない。懐かしくなって、インターネットで彼の名前を検索すると、フェースブックの写真に現れたその顔に面影があった。


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新婚旅行 [自分史]



私たち夫婦はギリシャに新婚旅行に行った。教会で結婚式を挙げたので、正式には結婚式付き新婚旅行だ。十組近くのツアーで、私たちは初めての海外。
当時、ハワイの一週間の結婚式ツアーに人気があったが、私は八日間のツアーだったので、会社の上司が、このように休みが長いのは前例がないとの理由で、休暇の許可をなかなかもらえなかった。
式は、地中海に浮かぶロードス島の紺碧の海を見渡せる丘の上の教会だった。薫風吹き渡る季節の良い時期。
日本から買っていった安価なオモチャの結婚指輪を交換した。式が終わって、妻の指が太くて指輪が抜けなくて困った。
ロードス市長から結婚証明書もらい、偶然に出くわした祭りのパレードを、石段を登った踊り場で、二人で長いこと見ていた。
観光途中で食べた干しぶどうが、美味しくて今も忘れられない。何もかもが新鮮で、楽しかった。

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自分史 [自分史]


父母の段原以前の生活
母は壬生(広島県山県郡北広島町壬生)の大きな農家に嫁に行くが、姑にいじめられ痩せこけて、一年たたない内に離婚。それから、父を気に入り結婚。「二人の新婚生活は、なんと幸せだ」と思ったそうだ。
父は、広島市内のおじさんの酒屋の丁稚奉公をしていたが、やがて独立して東雲町(広島県広島市東雲町)で店を出す。商売は順調で生活は楽だったらしい。昭和十年、第一子(長姉すみちゃん)が生まれる。しかし、日中戦争により、売る商品が不足するようになった。
そこで、魚屋をしていた母の兄(皆、「たけっさん」と呼んでいた)を追って下関(山口県下関市)に行き、乃木神社の通りで、お菓子屋を始める。昭和十四年、第二子(次姉みっちゃん)が生まれる。お参りの客が多く、かなり儲かったらしい。忙しいために長姉はほったらかし、生まれたばかりの次姉は母の兄嫁に子守を頼む。しかしこのような状況は長続きせず、父は工場(神戸製鋼)に徴用され、慣れない仕事で病気(肋膜炎)になり入院。
そのために、田舎の須倉村(広島県山県郡北広島町有田須倉)に戻り、古い一軒屋の借家に住む。昭和十八年、第三子(三姉たけちゃん)が生まれるが、母の兄の養女になる。長姉は、「雪が多くて、小学校に行く道が無くなったと泣いて帰った」と、その当時の思い出を語る。
さらに母の兄を頼って移原(広島県山県郡北広島町移原)の母の実家の蔵に住む。昭和二十年、第四子(兄こうちゃん)生まれる。田んぼを借り稲作で生計をたてていたが、戦後の農地改革で、その田んぼが自分たちの所有になり、そこに家を建て移る。
昭和二十五年、第五子(私)が生まれる。父が結核で入院。片肺を切除されるが、蓄えたお金で、ストレプトマイシンを打つことが出来て、父は一命をとりとめる。その当時、生活が一番苦しかったようだ。藁小屋で飼っていた山羊の乳が大切な栄養源になっていたようで、私はご飯にこの乳を注いでお茶漬けのようにして食べていた。生家の記憶はほとんどないが、大きな木製の足踏みの米搗き器があったことを憶えている。
家の前にはダリアと葵の花が咲いていたと養女に行った三姉は、通学途中、通り過ぎながら眺めていたと言う。ダリアのそばに便所があった。
母の実家の庭に犬がいて、大きな柿の木に繋がれていた。私はその犬に噛まれて、左足首の付け根辺りに、カタカナのハの字を逆さまにしたような傷跡が今でも鮮明に残っている。父か母の葬儀の時だったと思うが、兄もその犬に足首を噛まれていたことを初めて知って、同じような傷跡を見せ合ったことがある。
父が退院して帰った時に、私は初めて父に会った。長い間の病院暮らしで普通の生活に戻るのに時間がかかったらしい。
町名は、八重町から千代田町それから北広島町に変わってしまったが、私たち親族にとって、「やえ」と「ちよだ」は強い郷愁を覚える響きがある。
父母の段原以後の生活
いままで頼りにしていた母の兄が死亡したこともあり、昭和三十二年に段原(広島県広島市南区段原)に引越しをして、卵の卸を始める。
田舎から卵を仕入れて、それを自転車で配達して店に卸していた。かなりの利益を上げていて、兄が月給十万円の頃、その倍程度稼いでいたようだ。父がすべてのお金を管理し、シワシワの紙幣は端々まで丁寧に伸ばし、その束に膝で重みを掛け、布団入れの下に置いていた。紙幣をアイロンがけもしていたようだ。大切な預金通帳等は、ビニールに包んで隣家との間(外)に保管していた。
一方、母は自由にお金を使えないのが不満で、自分の預金通帳を持つのが夢だった。
段原の実家界隈
広島駅から南西へ歩いて二十分もすると、ごちゃごちゃした段原の町に入り、角の石屋のある通りを進み、三~四筋目の路地を曲がると、二軒目が私の実家。自転車一台が通れる程度の細い行き止まりの路地だ。十数坪の敷地に二階建ての建物で、二階の四部屋の内三部屋を貸していて、一階がメインの生活の場でだった。
風呂は五右衛門風呂で、近所の木工所から出る廃材を貰って、沸かしていた。踏み板を足で沈めて、鉄肌に触れないように、そっと入った。狭い浴室で、肘が壁にぶつかり洗髪が大変だった。
身体を触れ合いながら家族皆が丸い小さなテーブルを囲んで食べた食事は、活気ある温かいものだった。父が醤油の皿の使い残しを全て元の瓶に戻したり、出し過ぎたチューブの調味料を上手に元に吸い戻したところを、三姉(たけちゃん)は感心して見ていて、皆で笑いあったと、その当時の思い出を語る。
ご飯はガスの直火炊きで、釜に張り付いた焦げをはがして食べるのが私の楽しみだった。すでに長姉(すみちゃん)は結婚していたが、家族六人と間借り人で狭い家は溢れていた。
近所の人たちも我が家の玄関に座り、雑談をする母の笑い声が近所に響き渡った。
路地には十数軒の家があり、歯が抜けたまん丸な笑顔のお婆さんがいて、卵を売り歩いていた。その「すみだのおばあさん」は私に時々お菓子をくれた。また片腕を失くしたお婆さんは、乳母車ほどの大きさの台車に古本を乗せて、貸本の行商をしていた。
路地の奥の方には、小太りの坊ちゃんタイプの同級生がいたが、同じクラスではなかったので、あまり親しく遊ばなかった。しかし、小学一年の時、その子の自転車で、その子が私に乗り方を教えてくれた。自転車の後ろを持ってくれて、路地を何回も往復した。
中学生の頃は、朝早く起きて、父が仕事で使う前に、商売用自転車を乗り回していた。大学の時に、長姉が捨てられていた自転車を持ってきてくれたのが、初めての私の自転車である。私が大学卒業まで育った家は、周辺一帯が開発されて今は面影がない。

父は家族全員に見守られて六十六歳で他界した。私が二十六歳の時だった。私が就職して間もない頃、会社に兄嫁から父危篤の連絡が入った。夜行列車で帰った記憶がある。死に目に間に合った。葬儀の日は晴れの日だったが出棺の時に涙雨が降った。
父は明治四十三年生まれである。兄が作った家系図によると広島県山県郡千代田町の五人兄弟の末子だ。そのあたりには同姓が多く、私のルーツの里である。学歴は尋常小学校、軍隊経験はない。
血卵は売り物にならなかったので、両親は、裸電球に一個一個卵をかざして、血が混ざってないかどうかのチェックをしていた。父は自転車で配達していたので、たびたびパンク修理をしていた。私はパンク修理を父から習った。
小学校低学年の頃、私は、家の二階の賃貸していた部屋を外から鍵を閉めて、中の住人を出られないようにしたことがあった。その時、父にひどく殴られ叱られたが、母がかばってくれた。
私が生まれた時、病院で療養していたので、父にはあまりなじめなかった。面と向かって話したことがない。私も無口で家族との会話もあまり無かった。
趣味らしい趣味はなかったようだが、酒が好きで毎日晩酌をしていた。入浴後、痩せた身体に浴衣を羽織り、仕事の疲れを癒すようにゆっくりと盃を傾けていた。
片肺がなく声量が無かったが、ある日の酒席で、かすれ声で「船頭小唄」を唄っていた思い出がある。日本酒ばかりであった思うが、どんな銘柄を呑んでいたのか、今となっては確認のしようがない。
我々子供を育てるのに精一杯だったのだろう、外食や旅行はほとんどしなかった。兄嫁が嫁いできた頃は、近所に買い物にいくと、一男さん(父)のところのお嫁さんかと、あちこちで声を掛けてくれる人が多かったようだ。
また、父の晩年、「お父さんは几帳面でお洒落でお喋りすると楽しい人で、美しい器でお茶を飲みながら食事をするのが好きだと何度も言っていた。長男が生まれ、本浦に居る時は、たびたび訪ねて来て楽しく話をしてくれて帰った。かわいいお父さんだった」と兄嫁は偲ぶ。
私は人付き合いの悪い暗いイメージを持っていたが、意外に商売上手で社交家の一面を見たような気がした。

母は明治四十四年五月一日の生まれである。高等女学校の卒業で、父の尋常小学校より更に上の学歴が自慢だったようだ。中学校の家庭調査で母に最終学歴を尋ねた時にそう思った。
私は五人姉兄の末っ子で、母が三十九才の時に生まれた。高齢出産であるが多産の時代は当たり前だったのかもしれない。長姉は十五才、すぐ上の兄は五才も離れていたので、いつまでも母に甘えて小学校高学年まで母の乳房を触ってばかりいた。夜は父と母の間に挟まって川の字に寝ていたが、小学校五年生の頃まで時々寝小便をした。母は小便臭い濡れた布団をどのようにしていたのか憶えていないが、あまり叱られなかった。
母は九十才で亡くなった。定かでないが八十才過ぎくらいから認知症があったようだ。正月に帰省すると、「お金を取られた」と母が私に話したことがある。まさかと思いながら聞き流していたが、認知症の典型的な症状だったとしばらくして分かった。
母は子育てに必死だった
私は山県郡千代田町の家で生まれ、六歳頃までいた。
ある時、友達と遊んで帰って、母に蛇を殺して捨てたことを話したら、母は捨てた場所を私から聞き、探し出してきて食べさせてくれたことがある。今思うと、蛇を殺す子供も凄いが、食事に供する母親も凄かった。なぜ、こんなことをおぼえているのか忘れてしまったが、私が大きくなってから母が話してくれたのかもしれない。父が結核で入院し、家計は貧しく四人の子供を育てるのに必死だったのだろう。
また、段原の家は自転車一台がやっと通れるほどの路地にあったので、トラックで我が家のそばに卵が運ばれると、家族総出で、五キロほど入ったダンボールを自動車道路から我が家に運び込んだ。
ある時、生きた一羽の鶏が運ばれてきた。偶然トラックに入っていたのか食料にするためにもらったものなのか子供の私にはわからなかった。母は包丁で鳴きわめく鶏の首を握って切り落とした。首を失った鶏は一直線に走って壁に突き当たるとばたっと倒れた。
私たち子供のために、こんなことまでしてくれて育ててくれた母は強かった。

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父と母の話 [自分史]

母は壬生(広島県山県郡北広島町壬生)の大きな農家に嫁に行くが、姑にいじめられ痩せこけて、一年たたない内に離婚。それから、母は父を気に入って、父と結婚をする。「二人での新婚生活はなんと幸せなんだ」と思ったそうだ。
父は、広島市内のおじさんの酒屋の丁稚奉公をしていたが、やがて独立して東雲町(広島県広島市東雲町)で店を出す。商売は順調で生活は楽だったらしい。昭和十年、第一子(私の一番目の長姉)が生まれる。しかし、日中戦争が激しさを増し、売る商品が不足するようになった。
そこで、魚屋をしていた母の兄を追って下関(山口県下関市)に行き、乃木神社の通りで、菓子屋を始める。昭和十四年、第二子(二番目の次姉)が生まれる。お参りの客が多く、かなり儲かったらしい。長姉は放っておかれ、生まれたばかりの次姉は母の兄嫁に子守を頼む。しかしこのような状況は長続きせず、父は工場に徴用され、慣れない仕事で病気になり入院。
そのために、田舎の須倉村(広島県山県郡北広島町有田須倉)に戻り、古い一軒屋の借家に住む。昭和十八年、第三子(三番目の三姉)が生まれるが、母の兄の養女に出す。長姉は、「小学校に行くのに、雪が多くて道が無くなったと泣いて帰った」と、その当時の思い出を語る。その後、移原(広島県山県郡北広島町移原)の母の実家の蔵に住む。昭和二十年、第四子(兄)生まれる。田んぼを借り稲作で生計をたてる。戦後の農地改革で、その田んぼが自分たちの所有になり、家を建てる。昭和二十五年、第五子(私)が生まれる。父が結核で入院。家の前にはダリアと葵の花が咲いていたと養女に行った三姉は、通り過ぎながら眺めていたと言う。片肺を切除されるが、いままでの蓄えのお金で、ストレプトマイシンを打つことが出来て、父は一命をとりとめた。その当時、生活が一番苦しかったようだ。藁小屋で飼っていた山羊の乳が大切な栄養源で、私はご飯にこの乳を注いでお茶漬け感覚で食べていた。父が退院しても、長い間の病院暮らしで普通の生活に戻るのに時間がかかったようだ。
いままで頼りにしていた母の兄が死亡したこともあり、昭和三十二年に段原(広島県広島市南区段原)に引越しをして、卵の卸を始める。
田舎から卵を仕入れて、それを自転車で配達して店に卸していた。かなりの利益を上げていて、兄が月給十万円の頃、その倍程度稼いでいたようだ。兄嫁が嫁いできた頃は、近所に買い物にいくと、一男さん(父)のところのお嫁さんかと、あちこちで声を掛けてくれる人が多かったようで、社交家だったらしい。お金の管理は、すべて父がやっていた。商いで稼いだシワシワの紙幣は端々まで丁寧に伸ばし、その束に膝で重みを掛け、布団の下に置いていた。紙幣をアイロンがけもしていたようだ。大切な預金通帳等は、ビニールに包んで隣家との間の外に保管していた。
一方、母は自由にお金を使えないのが不満で、自分の預金通帳を持つのが夢だったようだ。
風呂は五右衛門風呂で、近所の木工所から出る廃材を貰って、沸かしていた。踏み板を足で沈めて、鉄肌に触れないように、そっと入った。小さな浴室で、肘が壁にぶつかり洗髪が大変だった。身体を触れ合いながら家族皆が丸い小さなテーブルを囲んで食べた食事は、活気ある温かいものだった。父が醤油の皿の使い残しを全て元の瓶に戻す様子や出し過ぎたチューブの調味料を上手に元に吸い戻す様子を、三姉は感心して見ていたそうだ。

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兄嫁から聞いた父の人生 [自分史]



父は広島市内のおじの店の丁稚奉公をしていたが、やがて独立して酒屋の商売を始め、かなり儲けたらしい。
それから下関に母の親戚たちがいたので、そこで一緒に商売を始めたようだ。そこでもうまくいって、人付き合いも上手で利益を上げたらしい。
結核を発病して生まれ故郷の広島の田舎に帰ってから私が生まれた。父は結核療養所で片肺を切除し、さらに、いままでの蓄えをはたいて新開発のストレプトマイシンを打ち、一命をとりとめた。
回復後、広島市内に引越しして、卵の卸を始める。田舎から卵を仕入れて、それを自転車で配達して店に卸していた。かなりの利益を上げていて、兄が月給十万円の頃、その倍程度稼いでいたようだ。
兄嫁が嫁いできた頃は、近所に買い物にいくと、一男さんのところのお嫁さんかと、あちこちで声を掛けてくれる人が多かったようで、社交家だったらしい。
お金の管理は、すべて父がやっていて、紙幣をアイロンがけしていた。母は自由にお金を使えないのが不満で、自分の預金通帳を持つのが夢だったようだ。

私は人付き合いの悪い暗いイメージを持っていたが、意外や意外、商売上手で社交家でたくましい父の一面を見た。


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大学受験時代の仲良し四人組 [自分史]


人には朝早くから活動して夜早く寝る朝型タイプとその逆の夜型があるが、私は朝型である。高校時代にその習慣が付いた。
その頃、大学受験は四当五落などと言われて、睡眠時間が四時間の人は合格するが五時間の人は不合格になると脅かされて受験勉強に明け暮れていた。
夕食をそそくさと済ませると、直ぐに就寝し、朝の二時頃に起きて勉強をした。学校の行き返りはボストンバッグに教科書や字引などをどっさりと入れて、長期の旅行の風采だった。
三年の正月が過ぎると受験シーズンで、授業は無くなり学校へ誰も行かなかった。
しかし、私を含め仲の良い理系志望の四人組は、みんな塾に行っていなかったこともあって、教室に通って勉強をした。二ヶ月足らずの期間だったが、同じ目標を目指している同志のような気持ちがあり、充実感があった。
四人とも国立大学のみの受験で学部学科はそれぞれ違ったが志望校は同じ。地元広島の一期校の大学を受験して、合格発表後に二期校の受験があった。一期校は希望した学科が易しかったこともあって、運良く私だけが合格した。
二期校の受験はキャンセルしてもよかったが、仲間意識を強く感じていたので、愛媛県松山市に一緒に船に乗って行った。私だけが旅行気分だった。もちろん同宿。試験が終わって、松山城の天守閣への急な階段を四人で登った。前を登る女性のミニスカートが眩しかった。
結局、三人は一浪し、翌年にそれぞれ別の大学に入った。


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母は子育てに必死だった [自分史]


私は広島市内から北にバスで二時間近くかかる山県郡千代田町で生まれた。
ある時、友達と遊んで帰って、母に蛇を殺して捨てたことを話したら、母はどこに捨てたのかを私から聞きだして、その蛇を探し出し料理して食べさせてくれたことがあった。
今思うと、蛇を殺す子供も凄いが、食事に供する母親も凄かった。
小学校に入学したのは広島市内に引越してからなので、私が六歳までの頃の出来事。
なぜ、こんなことをおぼえているのか忘れてしまったが、私が大きくなってから母が話してくれたのかもしれない。父が結核で入院し、家計は貧しく四人の子供を育てるのに必死だったのだろう。

また、父は退院して広島市内に引越しして卵の卸の商売を始めた。卵は田舎の千代田町から仕入れていた。
狭い普通の民家の我が家は自転車一台がやっと通れるほどの路地にあった。トラックで卵が運ばれると、家族総出で、十キロほど入ったダンボールを自動車道路から我が家に運び込んだ。
ある時、生きた一羽の鶏が運ばれてきた。母は包丁で鳴きわめく鶏の首を握って切り落とした。すると鶏は一目散に走って壁に突き当たるとばたっと倒れた。
私たち子供のために、こんなことまでしてくれて育ててくれた母はほんとうに強かった。


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パンの耳 [自分史]



私が小学生の頃、自宅からちょっと離れたところにパン屋があった。
ケーキも売っていてその当時としてはモダンな店だった。
食パン一斤が五~十円だったと思う。
小遣いは一日あたり五円。一円玉が主流だったが一円札がまだ流通していて、母から一円札五枚をもらったこともある。
そのパン屋にパンの耳を油で揚げて砂糖をまぶしたものが、紙袋にかなりの量が入って五円だった。こんなに美味しいものが、なぜ五円で販売されているのか不思議でならなかった。焦げ色がついてカリッとしていて、油と砂糖のこってりした味が旨かった。

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小学校入学当時 [自分史]



田舎から広島市内の町に引っ越し、ほどなくして一年生になった。
田舎の小川しか知らなかった私は大きな川に驚き、母から町ではこの程度の大きさは当たり前だと教えられた。
また、大根の漬け物を「こうこう」ではなく「たくあん」と言うように母に教えられた。「こうこう」は田舎言葉なんだと思った。それからというもの今でも「たくあん」と呼んで「こうこう」とは言わない。
初めての散髪屋さんに行くのが怖くてひどく泣いたそうだ。田舎では散髪屋さんに行ったことが無かったのかもしれない。
そして、夏になると小学校にプールができる四年生頃までは川で泳いた。
入学すると同姓の女の子がいたので、間違わないために担任の先生からフルネームを簡略にした呼び方をされたことも覚えている。


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兄が言い残したかったこと [自分史]



私の兄は2011年2月に65才で亡くなった。
闘病で体重が四十キロを切って痩せているが口元をぐっと結んでいる棺の顔は兄らしく、私の家系の長男として家族の主として厳格に生きてきた表情だった。
家族愛と親族愛が強く、家族にたいしては勿論私たち姉弟に対しても常に心配をしてくれた。心配しすぎるほどであり、いろんなことが放っておけなかったのだろう。
病気になっても体が動ける間は、体が不自由な兄嫁のかわりに食事を作り続けたようだ。働く末娘の弁当も。私が兄を見舞った時でも、兄嫁の体調が芳しくなければ、すぐに病院へ連れて行っていた。
死ぬ数日前まで、頭がしっかりしていて、いつも通り厳格な態度で周りの者に接してしたようだ。
そんな兄は、医者から余命宣告を受けてから、どんな気持ちで二年近く生きてきたのだろうか。家族特に兄嫁と精神的に不安定な長男を残すことに後ろ髪を引かれる思いがあったことは容易に想像できる。
すい臓がんが見つかった時に、心配事は兄嫁のことだと私にメールで送ってきてくれたこと以外、兄の口からは他に何も聞くことがなかった。残された者に言い残したかったことは山ほどあったのではないだろうか。
告別式の後、病床で虫眼鏡でないと読めないような小さな字で何かをノートに書き残しているということを知った。きっと言いたかったことをノートに残したのだろうと思うと、私は何か心のわだかまりが取れたようで、安心した心持になった。


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